東京港(とうきょうこう)・たそがれ小判物語(こばんものがたり)

東京湾・たそがれ小判物語〜江戸から現代へ。小判がつなぐ臨海地域の今昔

昭和期(しょうわき)のりんかいエリアで、ゴールドラッシュ

 昭和(しょうわ)30年代(ねんだい)深川地域(ふかがわちいき)で、江戸時代(えどじだい)小判(こばん)相次(あいつ)いで発掘(はっくつ)されました。いずれも1(まい)小判(こばん)(きん)含有量(がんゆうりょう)が8グラム〜15グラム。お宝発見(たからはっけん)のニュースは世間(せけん)をにぎわせ、埋立地(うめたてち)海岸(かいがん)一角千金目当(いかっくせんきんめあ)ての人々(ひとびと)集結(しゅうけつ)。りんかい地域(ちいき)は、さながら「ゴールドラッシュ」の様相(ようそう)(てい)します。
 このとき泥土(でいど)の中から発掘(はっくつ)された小判(こばん)全部(せんぶ)で37枚。うち東京都港湾局(とうきょうとこうわんきょく)が10(まい)所蔵(しょぞう)しています。

小判(こばん)一緒(いっしょ)に、江戸時代(えどじだい)へタイムスリップ

 東京港(とうきょうこう)発掘(はっくつ)された小判(こばん)は、どんな時代(じだい)につくられ、使用(しよう)されていたのでしょうか。まずは、昭和(しょうわ)39(ねん)発見(はっけん)された慶長小判(けいちょうこばん)。こちらは1600年(慶長(けいちょう)5年)、関ヶ原(せきがはら)(たたか)いに大勝(たいしょう)した徳川家康(とくがわいえやす)が行った貨幣改革(かへいかいかく)(さい)にうまれた新貨幣(しんかへい)のひとつで、(おも)さ17.9グラム、(きん)含有量(がんゆうりょう)は15.0グラム。1603年の江戸幕府成立(えどばくふせいりつ)()全国(ぜんこく)流通(りゅうつう)していきます。
 いっぽう、昭和(しょうわ)32(ねん)発掘(はっくつ)された元文小判(げんぶんこばん)は、慶長小判(けいちょうこばん)から(やく)世紀後(せいきご)鋳造(ちゅうぞう)されたもの。金銀(きんぎん)生産率低下(せいさんりつていか)により、当時(とうじ)幕府(ばくふ)貨幣(かへい)品質(ひんしつ)()としたことから、物価(ぶっか)不安定(ふあんてい)となり、社会不安(しゃかいふあん)()()こしてしまいます。そんな(なか)、1736年(元文元年(げんぶんがんねん))に(おこな)われた改造(かいぞう)誕生(たんじょう)したのがこの小判(こばん)でした。(おも)さ13.1グラム、(きん)含有量(がんゆうりょう)8.6グラムの小判(こばん)は、時代(じだい)見合(みあ)った貨幣(かへい)として、以後約(いごやく)100年間(ねんかん)長期(ちょうき)にわたり使(つか)われることとなりました。

■なぜ有明(ありあけ)に? 小判(こばん)のナゾをさぐる

 ところで、そもそも江戸時代(えどじだい)には(うみ)だったこの地域(ちいき)から、なぜ小判(こばん)発掘(はっくつ)されたのか? (なぞ)()()かす有力(ゆうりょく)(せつ)のひとつが、「小判運搬船(こばんうんぱんせん)沈没説(ちんぼつせつ)」。
――水運(すいうん)(ささ)えた百万人都市(ひゃくまんにんとし)江戸(えど)各地(かくち)からの積荷(つみに)とともに品川沖(しながわおき)入港(にゅうこう)した千石船(せんごくぶね)は、その()(はしけ)()()えていました。あるとき、(きし)()かう(はしけ)大波(おおなみ)沈没(ちんぼつ)積荷(つみに)小判(こばん)海底(かいてい)へ...。(とき)(なが)れ、現代(げんだい)海底(かいてい)()った土砂(どしゃ)による()()てが(すす)東京港(とうきょうこう)で、()()された土砂(どしゃ)とともに、小判(こばん)はふたたび()()()びることに――。
 かつて江戸湊(えどみなと)として(にぎ)わった東京港(とうきょうこう)繁栄(はんえい)や、その()()()事業(じぎょう)とつながる、なるほど、興味深(きょうみぶか)(せつ)です。

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江戸(えど)現代(げんだい)、1(まい)小判(こばん)がつなぐ数百年(すうひゃくねん)(とき)。あなたが(ある)く、その足元(あしもと)には意外(いがい)歴史(れきし)(ねむ)っていました。最新(さいしん)スポットの散策(さんさく)臨海副都心(りんかいふくとしん)魅力(みりょく)ですが、(とき)にはふと(あゆ)みをゆるめて、時代(じだい)(なが)れに(おも)いを()せるのも(たの)しいかもしれません。



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